幸手市(さってし)権現堂桜堤の花見ガイド

桜の名所として有名な埼玉県幸手市権現堂堤の魅力を桜などの花・その周辺のお店や施設と共に紹介しています。

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「中川」ってどんな川?

047 縮小版

文字が小さくて読めないので、原文のまま書きます。

あと、文章が長いです。


◎「中川」ってどんな川?
 羽生市の葛西用水路左岸に起点があり、埼玉県の東部の水田地帯を流れ、都内に入って中川と新中川に分流して東京湾に注ぐ、延長約81kmの川のことだよ。この川は、山岳部からの源流がなく、低平地約987km(うまく表示できないですけど「平方km」のことです)(埼玉県の面積の26%)の雨水と生活や水田の排水を34の支派川で集めて流しているめずらしい川なんだ。

◎「源流のない川」ってどうしてできたの?
 それはね!江戸時代に、それまで東京湾に向って乱流していた利根川、渡良瀬川の流路を東へ変え、常陸川筋を利用して河口を銚子に移したこと。また、利根川に合流していた荒川を入間川、隅田川筋を利用して西へ移したことによって古利根川、元荒川、庄内古川などの山からの源流のない川が生まれたんだ。
 更に幕府は、お米を増産するために、水害の減ったこの低平湿地、池沼の水田開発を広く進め、旧川を排水路や用水路として利用したんだ。現在の中川水系の水田地帯は、こうしてできたんだけど、一河川の水系としては、未整備だったんだ。

◎「中川」って名称はどうしてついたの?
 昔は、一つの川の呼び名も上下流で違ったんだ。中川は古利根川の下流部の呼び名で、現在の都内の地域は、武州葛飾郡葛西領と呼ばれ、川を境にして東西葛西領に分かれていたため、中間を流れる川・・・「中川」と呼んだという説や隅田川と江戸川の間を流れているからという説などがあるんだ。それをこの川全体の名称にしたんだよ。

◎現在の「中川」として整備されたのはいつ頃?
当時この地域は、古利根川筋(隼人堀、元荒川が合流)と島川、庄内古川筋(江戸川に合流)に分かれてたんだ。しかし、低平地の排水を改善するには、東京湾へ低い水位で流下させる必要があるため、島川や庄内古川を最低地部を流れる古利根川につなぐことが最善策として計画され、大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて内務省(国)の直轄事業として、利根川、江戸川や荒川の改修と併せて実施されたんだ。また、昭和22年(1947)のカスリーン台風の大洪水の後、24年から37年にかけて東京都によって放水路として新中川が開削され現在の姿になったんだ。

裏面も

[中川成立前の状況]

◎島川と庄内古川
 島川は、羽生領、島中領等の排水の一部を川口(現加須市)の与八杁(よはちいり)から葛西用水路(古利根川)に、主流は、権現堂川を通して江戸川最上流に落としていた。
 庄内古川は、幸手領、庄内領、松伏領の大半の地域の排水を遠く下流の二郷半領一本木(現三郷市)から江戸川に落としていた。
 両川とも江戸川の水位が高いため落ちが悪く、洪水時には、逆流水で被害を受けていた。

◎古利根川、中川(下流部)
 古利根川の上流部は、葛西用水路として利用されており、会の川が合流し、与八杁から島川の排水を受けた後、吉羽(現久喜市)で青毛堀と合流していた。そこから春日部までは、大落堀と称し、備前堀、隼人堀、倉松落等が合流していた。
 春日部市から都県境までの中流部は、古利根川と呼ばれ千間堀(現新方(にいかた)川)、元荒川、大場川が合流しており、このうち、越谷市の古利根堰(ぜき)までは、葛西用水路と共用していた。都県境からは、中川と称し、蛇行して東京湾に注いでいた。この川筋がこの水系の中で最低地部である。
 なお、綾瀬川は、別に隅田川に流入していた。

[中川の整備]大正5年-昭和4年
 中川の整備は、外周河川である利根川、江戸川及び荒川の改修に附帯して、低湿地帯の内水を河床を下げ低い水位で排除することを目的に実施された。
 島川は、利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6kmを新開削して庄内古川につなぐ。庄内古川は、松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7kmを新開削して古利根川につなぐ。(江戸川落口に比べ古利根川落口は、2km以上も低かったという。
 都内西新小岩から河口までの約7.6km は、荒川放水路計画の中で同水路に併行して付替えて綾瀬川を合流させた。その他、旧河道の整備や蛇行部のショートカットを行い、上流の与八杁を廃止した。
 整備後、庄内古川の5月から10月の平均水位2.1mも低下し、効果が如実に現れたという。


土地改良区と市町村についてはただ、羅列されているだけなので割愛させていただきました。

001 縮小版 中川の歴史

これだけだと分かりづらいので

中川の歴史の場所

青丸で囲まれている所におじさんが立っているのですが、そのあたりにあります。

ここまでの道は、行幸湖への道でわかると思います。(ちなみに行幸湖への道の中で、上から5枚目の写真と青丸をつけた写真は同じです。
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| 権現堂川の歴史 | 21:24 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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