幸手市(さってし)権現堂桜堤の花見ガイド

桜の名所として有名な埼玉県幸手市権現堂堤の魅力を桜などの花・その周辺のお店や施設と共に紹介しています。

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権現堂堤の歴史

江戸時代天正年間に利根川の支流(現在は分流)である権現堂川の堤防として築かれたものと言われ、かつては6kmにわたり約3000本の桜があり、大正時代から桜の名所として賑わっていた。また、1876年(明治9年)に明治天皇が東北巡幸の際に立寄ったことから、行幸(みゆき)堤とも呼ばれるようになった。

1920年(大正9年)に桜を植え替える運動は既に始まっていたが、利根川や江戸川の流路変更に伴い、権現堂川は明治時代の終わりに締め切られ、1933年(昭和8年)に廃川となる。そのため、堤防は荒れ果て、堤防の桜は終戦前後の混乱や燃料にするために、その多くが伐採されてしまった。

1949年(昭和24年)、旧権現堂川堤防のうち中川の堤防として残った部分へ改めてソメイヨシノを植樹したものが現在の権現堂堤である。なお、1988年(昭和63年)には周辺の休耕田にアブラナが、1996年(平成8年)には堤の一部にアジサイが植えられた。

2008年(平成20年)、権現堂調節池(行幸湖)と合わせ、埼玉県営権現堂公園として整備された。 【wikipediaより】

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| 権現堂堤の歴史 | 10:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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権現堂の名前の由来

「権現堂」という地名の由来

「権現堂」という地名の由来は、江戸時代後期に幕府が編さんした地誌「新編武蔵風土記稿」(しんぺんむさしふうどきこう)に記されております。

[ 権現堂村 ]の項に

村内に熊野・若宮・白山の権現(ごんげん)を合祀(ごうし)せし旧社あれば、この村名起これり

とあり

(訳)
村の中に、「熊野権現社」、「若宮権現社」、「白山権現社」という三つの神社を一緒にまつった旧い神社があったので、「権現堂村」という名になった。
[ 熊野若宮白山権現合社 ]の項に

村の鎮守(ちんじゅ)なり、正智院持、この社、古(いにしえ)大社にて村名の起こりと云も此(この)権現三社なり

とあり

(訳)
村の鎮守で、昔は大きな神社だった。「権現堂」という村名の起こりも、この「権現三社」である。
このように、村の中に「三つの権現」があったことから、「権現堂村」の名前が付けられたと考えられています。この社の創建は、天正年間(1573~92年)と伝えられていますが、はっきりとしたことは分かっていません。



<< 参考 >>古文書に見られる最も古い「権現堂村」

慶長20(1615)年 「下総国猿島郡幸手内権現堂村御検地帳」(しもうさのくにさしまぐんさってのうちごんげんどうむらごけんちちょう)

※江戸時代初期には「権現堂村」という村名が確実にあったことが分かります。 【幸手市観光協会より】

| 権現堂堤の歴史 | 06:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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幸手市権現堂桜堤の清保堂(せいほどう)

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この辺りには徳の高い清保善士という僧が住んでいて、ここに本尊が祀られています。昔から耳の病には御利益があると言われていて、全快のお礼として大工道具の錐を奉納する習慣があるそうです。

そのことが書かれている立て札が下の写真になります。

049 縮小版

 清保善士は、大字権現堂の松山(現在の北三丁目)にあった熊野山正智院(くまのさんしょうちいん)を開山した方で、このお堂もその一角にあったようです。慶安(けいあん)三年(1650)十一月四日に亡くなり、遺言によってここに葬られていますが、没後も耳の病気に悩む人々の信仰を集め、治った人々は耳の通りがよくなったということで、錐を奉納する風習がありました。
 今も地元の人々は、子供が生まれた時、七五三の時、結婚した時には清保堂・熊野神社・水神社の三社に参拝しています。【幸手市教育委員会】

| 清保堂(せいほどう) | 17:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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幸手市権現堂(4号公園)の明治天皇行幸(みゆき)記念碑

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ちょっと見づらいので書き起こしてみました。

行幸堤之碑(みゆきづつみのひ)

権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。

しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治八年六月に着工し、十月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです(現在は国道四号線がその上を通っています)。

明治九年六月に、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られてその労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されました。

人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいとお申し出たところ許可されてということです。

明治二十二年の町村制施行によって高須賀村・外国府間村・円藤内村・松石村・千塚村が合併して行幸村となりましたが、その村名もこの行幸堤に由来しています。

また、この石碑の建っている部分は行幸橋の架け替え工事(平成十二年ー十七年)以前はゆるやかな斜面であったため、石碑自体は歩道の近くにあって国道側向いていましたが、堤が高くなったために上に移し、見やすいように現在の向きにしたものです。

権現堂 039 縮小版
権現堂 037 縮小版

青丸で囲んであるところが明治天皇行幸(みゆき)記念碑になります。

001 縮小版 明治天皇行幸(みゆき)記念碑

| 明治天皇行幸(みゆき)記念碑 | 05:57 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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